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脱北したヨニさんの壮絶体験。現在は日本で北朝鮮料理屋を経営。

2025/4/11(金)放送の「じっくり聞いタロウ」に北朝鮮出身のヨニさん(34歳)が出演します。

彼女の壮絶な脱北ストーリーには驚きや感動、絶望や悲しみなど様々なドラマがありました。

現在は日本人の男性と結婚して日本で初めての北朝鮮料理屋を経営しています。

そんなヨニさんの波乱万丈エピソードについて記事にしたので是非最後まで読んで行ってくださいね。

目次

なぜ脱北する決断をしたのか?

ヨニさんの家庭はもともと裕福な家庭で幸せに暮らしていました。

ヨニさんは北朝鮮の有名な大学を卒業後、将来は軍の経理部門に入り、最終的には社会のエリート層へ上り詰めるという夢を持っていました。

しかし、お父さんの急逝をきっかけに家庭が経済的に困窮し、お母さんがやっていた飲食店も閉店。まさに人生が転落し始める瞬間でした。

そんな渦中で、おばあちゃんが生まれた韓国に戻る決意をし脱北しますが、中国で逮捕され、北朝鮮に送還され拷問を受け、体重も激減するほど過酷な目に遭います。

60kg近くあった体重が30kgになるほどやせ細り、ボロボロの状態で帰ってきたそうです。

おばあちゃんは刑務所の中で同じように脱北を試みて捕らえられた人達の姿を見て、逆に勇気をもらいます。
脱北者は殆どが若い女性だったそうですが、こんなに若い女性が脱北に挑戦している姿を見て俄然、やる気が湧いたそうです。

因みに脱北すると最悪処刑され、それは公開され親族は見なくてはならないらしいです。

ヨニさんも親戚のおばさんが射殺される瞬間を見るように強制されて今でもトラウマだそうです。

ヨニさん自身は当初、脱北を考えていませんでしたが、家族の苦労や国家の理不尽な体制を目の当たりにし、次第に「この国では自分の力だけでは夢は叶わない」と感じるようになります。最終的に、コネや権力のない者にはどんなに努力しても未来はないと悟り、脱北を決意します。

「死ぬ覚悟」で越えた国境――脱北者が語る、生と自由の代償

命を懸けた旅の始まり。

脱北を決意したその日、ヨニさんは母からひとつの言葉を託されます。

「自殺だけは考えないで。世界のどこかでまた会えるから――。」

母と別れたのは木の下で別れたそうで、未だに母の顔が忘れられないそうです。とても辛いエピソードですね・・・

いつ再会できるかも分からない娘に、母は最後まで希望を託しました。
持っていく小さなリュックには、服と少しの食べ物、そして…万が一のための毒(アヘン)とカッターが入っていました。

母と自殺しない約束はしましたが致死量のアヘンとカッターだけは懐に忍び込ませたようです。

彼女は一人、夜の闇に紛れ、国境の川を渡り、一歩間違えれば命を失うその川を、冷たい水に流されながら、必死に泳ぎました。

「その時、死ぬ気でした。絶対に戻りたくなかった。」

こんな言葉を当時はつぶやいていたそうです。

中国に渡った先にも、恐怖は続く

命からがら中国に渡っても、そこは安息の地はありませんでした。

この脱走はお金を払ってブローカーにお願いをしていました。そして、中国で使用できる携帯電話を事前に渡せれていましたが、中国に入った後も電波が入っておらず使用できませんでした。

山の中を彷徨い続けること48時間・・・

山中にはわざわざ韓国語で「脱北者を見つけたら殺せ」と真っ赤な字で書かれた看板――それを見た瞬間、希望はすぐに恐怖へと変わっていきました。

警察に見つかれば北へ即強制送還。戻れば、待っているのは拷問か処刑。
それならば、と持っていた毒の瓶に手をかける場面もあったといいます。

まさに命がけです。

命がけの中国渡航後は?

中国に何とか渡ったヨニさん。事前に渡された携帯電話がとにかく繋がりませんでした。

しかし、何とか道路に出て偶然通りかかったおじさんに助けられます。

助けてくれた恩人のおじさん

おじさん:『どこから来た?』と聞いてきたので、

ヨニさん:『平壌から来ました』と嘘をつきました。

どう見てもボロボロのヨニさんの姿を見て、おじさんは脱北者だと恐らく分かっていたと思います。

しかしそれでも、ヨニさんを車に乗せ、車中では、中国のパンを与え、ヨニさんを助けてくれました。

必死にパンを食べるヨニさん。48時間近く食事を取っていなかったので腹ペコだったはずです。

このおじさんがもし変に通報していたらとっくに捕まっていたかもしれません。

ヨニさんをとても気にかけてくれ、命がけで助けてくれた恩人で今でも忘れないそうです。

その後、無事に電話をかけられる場所に到着しました。電波が届かないところから車で10分ほど行った場所で、やっと電話が通じるようになり、心配していたブローカーの人とも連絡が取れました。

更にヨニさんは北京へ向かう途中で奇跡的な出来事が起こりました。

バスで北京を目指していましたが、その移動中、警察が乗車してきて、一人一人に名前や住所を尋ねました。ヨニさんは中国語が話せません。

少しでも怪しまれてしまったら強制送還です。とんでもない緊張感が走ります。

しかし幸運にもヨニさんの番がスキップされ、無事に通過することができました。もしそこでヨニが尋問されていたら、脱北者だとバレていたかもしれません。その後、無事に北京までたどり着きました。

次に、北京からラオスへ向かう際、国境近くで警察に捕まってしまいました。

絶体絶命の中、一日留置所で過ごしますが次の日の朝、警察から「朝ご飯は何を食べたいか?」と突然聞かれたことに驚きます。死を覚悟していた彼女は、食べることに対する意味を感じられず、最初はその質問が何を意味するのか理解できませんでした。

彼女は、とりあえず緊張でお腹は減っていませんが、麺を選び、提供されたインスタント麺を食べますが、味がなく、食べることができませんでした。

しかし何故か奇跡的に解放されて更に車でラオス方面に向かいます。

本当に奇跡が続きますね。記事を書いているだけでもドキドキします。

その後、国際バスに乗って国境を超えるが、バスの運転手も脱北者だと知っており、検査を避けるためにある行動をするように提案します。

その方法は国境を越えるためにバスの下に隠れて移動するという方法です。とても狭い空間に挟まるように隠れて4~5時間耐えます。少しでも気が抜けるとそのまま地面に落ちてしまい命を落とします。

また砂埃、排気ガスの影響で顔は真っ黒になっていたそうです。また同じ姿勢で5時間近く、体に力を入れながら耐えていたので降りた瞬間、体がしびれて降りれなかったそうです。

その後、ラオスに到着し韓国の大使館の人々に保護され、ようやく安全な場所にたどり着くことができました。

ラオスでの暮らしからの韓国に亡命

ヨニさんは韓国大使館に入ることができた後、体中が傷だらけで虫に刺されている状態だったことを初めて知ります。自分の傷を見て驚いたそうです。

大使館内には他にも脱北者たちが150人程いて、共に困難な道を歩んできた仲間として感動的な再会を果たします。

因みに9割近くが脱北に失敗して中国内で人身売買で売られて妊娠させられているような女性が多かったそうです。

中国内には極悪人がいて脱北者を通報しない代わりに国内で売ってしまう人がいるようです。

ヨニさん含めた脱北者たちは、ラオスの大使館で共同生活をしながら、限られた食材で自分たちで料理を作り、生活をしていました。

脱北者たちは、最初は互いに異なるアクセントや言葉遣いで戸惑うこともありましたが、次第に仲良くなり、情報を交換し合いました。

ラオスで4ヶ月間過ごした後、ヨニさんは韓国行きのパスポートを受け取ります。

このパスポートは1回限りの特別なパスポートだそうです。

脱北者の中にはアメリカ行きを希望した人もいましたが、最終的に韓国行きを選んだ脱北者が多く、数ヶ月を経てようやくヨニさんは韓国へと向かうことができました。

ヨニさんは、初めての飛行機の旅を経て、韓国に到着します。飛行機内で韓国行きか北朝鮮行きか不安に感じながらも、無事に韓国の空を目指します。

機内ではもしかしたら、北朝鮮に送還されるのではないかという不安が常につきまとい、一睡もできなかったそうです。

到着後、検査を受け、病気があれば隔離され、他の脱北者たちと共に3ヶ月間の社会適応訓練を受けます。この間、脱北者としての身元や経歴が徹底的に調査され、疑いのある人物には厳重な審査が行われます。

その後、生活環境に適応するために、韓国の経済や税制について学び、職業訓練も行われます。訓練後、韓国の住宅に割り当てられ、最初は簡素な部屋から生活がスタートしますが、国から支援を受けて生活を始めます。

北朝鮮の人々が悪いわけではない

脱北者としての生活は困難であり、北朝鮮に戻されたり、刑務所に送られたりする人々も多くいます。脱北者たちは同じ地球に住む仲間であり、北朝鮮の政策が悪いだけで、北朝鮮の人々が悪いわけではないと強調されています。

その後、ヨニさんの母と弟も脱北し韓国で暮らしているそうです。

日本で北朝鮮料理店「ソルヌン」経営

ヨニさんの母は脱北後、韓国ソウルで料理店をオープンし、ヨニさんは母の元で秘伝のレシピを3年修行。

日本人夫の勝又 成さん(35歳)と千葉県稲毛に北朝鮮料理店「ソルヌン」をオープンさせました。

「ソルヌン」は日本語で縁起の良い「正月の雪」という意味で、本場の北朝鮮料理と韓国焼肉が楽しめます。

お店の看板メニューは「平壌冷麺」。北朝鮮式のそば粉で作る本場の味だそうです。

日本人夫との出会い

韓国ソウルで、知人と行った焼肉店で働いていた、日本人の勝又成さんと出会います。

成さんは、「ヨニの笑顔が好き。ヨニが笑っているのを見ると、『あぁ良かったなぁ』って思う」そうです。

脱北の苦労や大変だった事を表に出さない事をとても尊敬しているといい、

「できる事はやってあげたい」という気持ちにさせてくれると話しています。

そんな2人は、出会いからわずか100日後に成さんからプロポーズ!

今は3歳の息子さんに恵まれ、家族3人で暮らしています。

ヨニさんは成さんと出会えて本当に幸せそうだね♪

まとめ

奇跡的な脱北ストーリーまとめ

・父の急逝をきっかけに家庭が経済的に困窮し、母がやっていた飲食店も閉店。人生が転落し始める。

・家族の苦労や国家の理不尽な体制を目の当たりにし、コネや権力のない者にはどんなに努力しても未来はないと悟り、脱北を決意。

・母と自殺しない約束をしたが、致死量のアヘンとカッターだけは懐に忍び込ませ、彼女は一人で夜の闇に紛れ、国境の川を渡り、一歩間違えれば命を失うその川を、冷たい水に流されながら、必死に泳ぎ、中国に辿り着く。

・中国に着き、偶然通りかかったおじさんに助けられたおかげで、恐れていた強制送還を突破。

・バスで北京を目指している矢先、警察が乗車してきて、一人一人に名前や住所を尋ねていたが、なぜかヨニさんの番がスキップされ、無事に通過。彼女は中国語が話せない為、絶体絶命の瞬間だった。

・その後、無事に北京までたどり着き、お金を払ってお願いしていたブローカーと連絡をとりながら、北京からラオスへ向かう際、国境近くで警察に捕まる。

・一日留置所で過ごすが、何故か奇跡的に解放されて車でラオス方面に向かう。

・その後、国際バスに乗って国境を超えるが、バスの運転手を避ける為、バスの下に隠れて移動。狭い空間に隠れて4~5時間耐える。

・命がけで国境を越えた後、ラオスに到着し韓国大使館に保護され、ようやく安全な場所にたどり着く。

・大使館内には脱北者たちが150人程おり、共に困難な道を歩んできた仲間とラオスの大使館で共同生活をしながら、限られた食材で自炊しながら生活をする。

・ラオスで4ヶ月間過ごした後、ヨニさんは韓国行きの1回限り特別パスポートを受け取ります。

・初めての飛行機の旅を経て、韓国に到着後、検査を受け、病気があれば隔離され、他の脱北者たちと共に3ヶ月間の社会適応訓練を受ける。

・生活環境に適応するために、韓国の経済や税制について学び、職業訓練が行われる。訓練後、韓国の住宅に割り当てられ、最初は簡素な部屋から生活がスタートするが、国から支援を受けて生活を始める。

・その後、母と弟も脱北し韓国で暮らす。

・母は脱北後、韓国ソウルで料理店をオープン。ヨニさんも修行する。

・韓国ソウルで出会った日本人男性と結婚。子供に恵まれ、家族3人で暮らす。

・夫と2人で千葉県稲毛に北朝鮮料理店「ソルヌン」をオープンさせ、今も尚人気店になっている。

様々な奇跡が起こり、韓国まで辿り着く事ができたヨニさん。

幸せになりたいと強く想う気持ちが、奇跡を起こしてくれたのかもしれませんね。

これからもずっと幸せに過ごしてほしいです。

最後までお読みいただきありがとうございました^^

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