2003年に滋賀県東近江市の湖東記念病院で看護助手として勤務していた西山美香さんが、人工呼吸器のチューブを外して患者を殺害した罪で有罪判決が確定しましたが、後に再審で無罪となった冤罪事件が起こりました。
当時、取り調べを担当した山下誠刑事や、滋賀県警などが注目されましたが、起訴した担当検事は、誰だったのでしょうか。
そしてこの検事は、西山美香さんの無罪判決後、すぐに検事を辞職しています。
では、なぜ検事を辞めたのでしょうか。
プロフィールや経歴を含めながら真相を調べてみました。
最後までご覧ください!
西山美香を冤罪にした検事は誰?
2003年に滋賀県東近江市の湖東記念病院で発生した冤罪事件で、西山美香さんを当時起訴した検事は、早川 幸延(はやかわ ゆきのぶ)さんだとわかっています。
2020年3月31日、大津地方裁判所で西山美香さんは無罪判決を受けました。その年に早川幸延さんは検事を辞職しています。
当時、定年前の58歳でしたが、責任を感じてしまったのでしょうか。
この早川幸延さんはあまり知られていない方なので、まずはプロフィールや経歴からご紹介します。
【元検事】早川幸延のプロフィール
氏名:早川 幸延(はやかわ ゆきのぶ)
出身:千葉県
生年月日:1962(昭和37)年8月8日
年齢:62歳(2025年6月現在)
学歴:専修大学法学部卒業
経歴:1990年(27歳)に任官し、大阪地検公安部長、大津地検、名古屋地検次席検事などを歴任した後、初めてトップに就いた宮崎地検、福島地検で検事正として勤務。
座右の銘:ロッキード事件を担当した元検事・松田昇氏の「おごらず、気負わず、そしてひるまず」
【元検事】早川幸延の経歴
早川幸延さんは、当時27歳の1990年に検事なりました。
検事を志望した理由を、「素朴な正義感を実現できると思った」と話しています。
・1990年(27歳)で任官。
(以降、福岡高検宮崎支部、東京高検などにも所属した記録がある)
・2001年頃、大阪地検で捜査主任として勤務。担当した児童殺傷事件で、被害者遺族への共感を重視する姿勢を見せていた。
・2003年、大津地検で冤罪事件発生。「湖東記念病院事件」で、西山美香さんを起訴した。
・2016年、名古屋地検次席検事。
・2018年、宮崎地検で初めてのトップ、検事正として昇進。
・2020年まで福島地検検事正として勤務。
・2020年、西山美香さんが無罪判決され、検事を辞職。
大阪地検で捜査主任
早川幸延さんは、2001年頃、大阪地方検察庁で捜査主任として様々な事件を担当。
その中でも有名な事件は、8人の命が奪われた大阪教育大付属池田小での児童殺傷事件。
早川幸延さんは、捜査主任を務めながら、自身の長女と同じ年頃のわが子を亡くした遺族の聴取も担当しました。
その時の心境を下記のように話しています。
「励ましの言葉がつらい」「気持ちの切り替えなんてできない」。悲しみを供述調書にくみ取ろうとしたが「本心にどこまで近づけたか」と今も自問する。「本人でない以上、思いを完全に理解することは難しい」。だからこそ後進には、被害者に可能な限り寄り添うよう求める。
被害者遺族への共感を重視する姿勢を見せていました。
大津地検で冤罪事件発生
前述でも話した通り、早川幸延さんは、2003年に冤罪が発生した「湖東記念病院事件」で西山美香さんを起訴した担当検事です。
西山美香さんは、接見した弁護士に無実を訴えたが、取調べでは犯行を「自白」してしまった為、山本誠刑事に言われるがままの自白調書が創作されてしまいました。
その自白調書を早川幸延検察官が仕上げて西山美香さんは殺人罪で起訴されました。
当時の裁判で早川幸延検察官は、下記のように主張しています。
「処遇等への憤まんを募らせ、気持ちを晴らすため入院患者を殺そうと企て、男性患者に対し、殺意をもって、人工呼吸器のチューブを引き抜いて、呼吸器からの酸素供給を遮断し、呼吸停止状態に陥らせ、急性低酸素状態により死亡させた」と主張。
その後、西山美香さんの虚構の「自白調書」を証拠として提出し、起訴するのです。
宮崎地検で初のトップに
早川幸延さんは、2016年8月5日~名古屋地検次席検事として勤務した後、
2018年2月頃~滋賀県に住む家族と離れ、単身赴任宮崎市へ。
トップに初めて昇進したのです。
当時の早川さんは、その時の心境を下記のように話しています。
トップとして就く宮崎地検では、「検察事務官も含め、話しやすい環境」を目指す。日本では起訴の権限を持つのは検察官だけ。「人の人生を左右する判断に伴う精神的負担は大きい。一人で抱えず助け合うべき」との思いからだ。
その後、福島地方検察庁にて検事正として勤務。
2020年の西山美香さんの無罪判決がされた年に、検事を辞職しています。
当時、早川幸延さんは58歳の定年前でした。
【元検事】早川幸延が検事を辞職した理由
早川幸延さんは、気取らない人柄で、被害者遺族との向き合いに配慮し、「被害者に寄り添う」検事だったはずが、
2003年に大津地検で西山美香さんを冤罪へと導く結果になってしまいました。
早川さんは駆け出し時代、警察への思いを下記のように語っていました。
駆け出し時代、新年早々に交通規制を伴う捜査を余儀なくされた。誘導の警察官にドライバーが吐き捨てる言葉に、市民と接する警察官の苦労を垣間見た。「業務が多岐にわたる警察には、検察とは違う捜査の段取りがある。話し合って理解し合うことが大事」 「失敗は数え切れない」
当時も、証拠が不十分の中きちんと警察と連携していたのかは疑問です。
西山美香さん(当時44歳)が国や県に国家賠償を求めた訴訟の証人尋問が大津地裁で行われ、出廷した早川さんが証人尋問で応えた言葉が下記の通りです。
殺害を認めた西山さんの自白について「核心部分が揺らいでおらず、信用できると思った」と証言。一方で、裏付けが取れなかった自白も一部認め、起訴した理由は「嘘を言う理由を見いだせなかった」などと説明した。
今回の湖東記念病院事件は、裁判所も検察も、警察を疑わなかった事で起きてしまった事件です。
早川さんの言葉に「嘘を言う理由を見いだせなかった」とありますが、西山美香さんが知的・精神的支援を必要とする「供述弱者」だった事は、話しながらわかったはずだと思うのです。
早川さんが大事にしていた被害者に寄り添う事ができていれば、このような事は起きなかったかもしれません。
きっと、本人もそう思ったから責任を強く感じて退職したのではないでしょうか。
一番悪いのは、証拠を隠蔽した警察ですが、疑いもせず罪のない人を起訴してしまった早川幸延さんは、相当な精神的負担を感じたに違いありません。
西山美香さんの無罪を言い渡した大西裁判長は判決の言い渡し後に、下記のような話をしています。
滋賀県警などのずさんとも言える捜査手法に触れて「これまでの手続きが一つでも適切に行われていれば、(西山さんが)このような経過をたどることはなかった」と指摘し、「この事件は司法制度や裁判に大きな問題提起をした。刑事司法に携わる全員が自分の問題として考えるべきだ」と求め、「今回の再審は、これからの刑事司法をよい方向に変えていく大きな原動力になる」と述べた。
【元検事】早川幸延の現在
早川幸延さんは2020年に検事を退職し、現在は、2020年10月10日付で、京都公証人合同役場にて指定公証人として従事中です。
京都公証人合同役場の指定公証人の仕事というのは、法務に関する手続きや証書の公証業務を行っていると推察されます。
まとめ
・2003年の湖東記念病院事件で西山美香さんを冤罪にした検事は早川 幸延(はやかわ ゆきのぶ)さん。
・千葉県出身の現在62歳(2025年6月現在)
・専修大学法学部卒業後、1990年(28歳)に任官。
(以降、福岡高検宮崎支部、東京高検などにも所属した記録がある)
・2001年頃、大阪地検で捜査主任として勤務。担当した児童殺傷事件で、被害者遺族への共感を重視する姿勢を見せていた。
・2003年、大津地検で冤罪事件発生。「湖東記念病院事件」で、西山美香さんを起訴した。
・2016年、名古屋地検次席検事。
・2018年、宮崎地検で初めてのトップ、検事正として昇進。
・2020年まで福島地検検事正として勤務。
・2020年、西山美香さんが無罪判決され、検事を辞職。
・現在は、2020年10月10日付で、京都公証人合同役場にて指定公証人として従事中。
・早川幸延さんは、気取らない人柄で、被害者遺族との向き合いに配慮し、「被害者に寄り添う」検事だったが、西山美香さんの「供述弱者」だった事を見抜けず、警察を信じた事で冤罪を生んでしまった。
・被害者に寄り添う事ができなかった責任で、定年前の58歳で辞職したと思われる。
・一番悪いのは、証拠を隠蔽した警察。しかし、罪のない人を起訴してしまった早川幸延さんは、相当な精神的負担を感じたに違いない。
早川幸延さんの信条でもある「おごらず、気負わず、そしてひるまず」の意味は、成功や地位に慢心せず、プレッシャーや不安に負けず、どんな状況でも臆することなく、落ち着いて対応するという意味です。
毎日の仕事に追われ、上記のような初心の思いを忘れてしまった頃に、「湖東記念病院事件」のような事が起きてしまったのでしょうか。
しかし、今回の事件は、警察が証拠を隠蔽していた事や、西山美香さんの好意を利用した事から始まった事件です。
なぜ、早川さんは退職し、担当した山本誠刑事は昇進し続けているのでしょうか。
決して早川さんも許されない事をしたわけですが、ある意味、被害者なのかもしれないと思いました。
今後、このような事件が起きない事を願うばかりです。


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